電通の過労死…
何度聞いても、つらい事件です。。。
高橋まつりさんの母、幸美さん独白4時間「上下関係が苦痛 寝させない拷問」
https://dot.asahi.com/wa/2017020100109.html
記事によると、
「ナチスドイツで寝させない拷問があった。寝ないって拷問だよね」
と、亡くなったまつりさんは、話していたそうです。
そのことを思い出しながら語る、お母様の苦しみは、いかばかりかと・・・想像しただけで、目の前が暗くなります。
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自分の子どもが、職場や学校で苦しんでいて、こういう話をするようになったなら、私だったら即座に休ませて、外に出さなかったと思います。成人してようが何だろうが、本人がどう言おうが、おそらく力づくでも職場から引き離しただろうと思います。
私は、そういう意味では、極甘の親かもしれません。
子どもは、生きていることが何よりも大切。
それにまさる優先事項は、原則ありえないと思っています。
けれども、私のような親は、「いい親」とは言われません。
子どもが不登校になれば、まず母親が(父親じゃないんですよね)、批判の対象となる場合が多いと思います。
うちは、長女が、小学校五年の春から中学三年まで、不登校でしたが、非難の視線を向けられているなあと思うことは、少なからずありました。
不登校について、地元の教育委員会が主催している部署の方(退職した元校長先生だと聞きました…)に相談したときには、
「お母さん、あなたから心を鬼にして、学校に出さなくてはならないんですよ」
と、言われました。そのあとにも、厳しい言葉が続きました。
持病のこと、鬱と診断されて治療していることは、すべて話した後のことでしたが、それを踏まえての相談にはならずに、ただただ、母親の心構えを諭されて、終わりました。
子どもが不登校になることは、母親の責任だと、暗にクギを刺されたのだなと、感じました。
その後、学校所属(?)の相談員という方と話をしているときにも、
「あー、母子分離不安ですね」
という告げられ、困惑しました。
ネットで母子分離不安について、調べてみても、うちの子どもに当てはまることが、何一つなかったため、さらに困惑。
その後も、トンチンカンな提案を、たくさんされ、ゲンナリしました。
「学校に来れないなら、支援学級に登校してみてはどうですか?」
支援学級に来れるくらい「元気」なら、自分の教室に通えるのに、そう説明しても、理解されず、
「差別意識はなくしたほうがいいですよ」
などと、言われる始末。
うちはそもそも息子が小学校の支援学級に所属していましたし、長女も小学校時代には、体育の授業を見学するかわりに息子のクラスの授業に飛び入り参加するなどして、お世話になっていましたから、差別意識なんか微塵もないのですが、それについて説明しても、全く通じませんでした。
なにをどう説明しても、私(母親)が、不登校を助長しているという先入観を、変えてもらうことはできなかったようでした。
いま思うと、あの教育委員会の人とか、相談員の人は、ちょっと「まとも」ではなかったのかなという気がします。
あんなに話が通じなくて、知的に「健常」だというのは、なかなか納得できません。( ̄。 ̄;)
とにかく、
「子どもが不登校であれば、問題は母親にある」という決めつけが、微動だにしない状況では、何を話し合っても、相互理解に至る道は存在しない、ということだったかもしれません。
どうやら、母親という存在は、社会に適応する子どもを育てる義務があり、それができない母親は「ダメ」であるという、不文律が、ここの国にはあるのだろうと思います。
だから、子どもが学校や会社に適応できず、辛そうにしていても、「いい母親」は、「休みなさい」とは、なかなか言いにくいのだと思います。
ダメ親だと叩かれてもいい、子どもが生きてくれることが最優先だと思っている、私のような母親は、子どもが即座に死ぬような状況でない限り、褒められることはないと思います。
叱咤し、激励し、困苦を乗り越えて、自立した社会人となるように導いていく…それが親の仕事といわれれば、否定はできません。
けれども、頑張りすぎて死ぬかもしれないようなときに、崖から突き落とすのは殺人行為であるのも、また事実。
甘えて都合良く逃げているだけなのか、本当に苦しくて声なき絶叫を上げ続けているのかどうかは、なんとか見分けなくてはなりません。
その見極めがどうしても難しくて、答えが見えないときには、突き落とすのではなく、私なら守るほうを選びます。
だって、死んじゃったら、取り返しつかないんですから。。。
命って、ほんとうにあっけなく、失われちゃうことも、あるんですから。
難病児の親ですので、そういうことは、イヤというほど知っています。
そして、自分一人ではどうにもできないとなったら、躊躇なく助けを求めます。
理解者と、解決法を知ってそうな人を探します。
そうやって、これまでなんとかやってきました。
これからも、そのつもりです。
しかしなんというか・・・
試練と拷問は、ちがうものなのに、その区別がない社会って、気味悪いですね。
試練には、それを引き受ける個人を成長させる可能性がありますが、拷問は、社会の仕組みや権力者の都合に、個人を無理やり屈服させるための手段です。
そう書いておかないと、なし崩し的にわかんなくなりそうな世の中の流れが、本当に怖いです。